小学生の頃の家族構成は
同居→両親、弟、祖父母と週の半分は従妹(父の兄の娘)が泊まりに来る
近くに曾祖母と祖父の兄夫婦が住んでいて、市内に従妹の家族が住んでいる。
田舎では近くに親類が住んでいるのはよくあることです。
保育園までは活発で元気と言われていたが、小学校上がるころには老けているといっていいくらいおとなしくなった。
元々呼吸が弱くて長く歩いたり階段を上ったりすると息が切れて動けなくなるので、手すりにつかまって登るように階段は登っていたけど、他の子は手すりを使わずに駆け上ることができていて、なぜそんな酸欠で苦しいことが平気でできるのか不思議だった。喘息特有の肺の音はしないので当時は喘息と診断されることはなかった。
祖父母は父の事をストレスのはけ口にしていい存在として扱っていたので、その家族(祖父側から見れば部下)は父を困らせるための道具にしていた。
祖父は元学校の先生で地区長をしたこともあり、近所では慕われていて、信頼が厚い。私の父を「親を困らせる甘ったれたダメ息子」だというスタンスで祖父も祖母も近所の人に話していたので、近所で人に会うと必ずと言っていいほど「祖父の何番目の子供の孫か」聞かれた。※
それを裏付けるために、祖母が母に家の前でビニールの混ざったごみを燃やすように指示を出したり、母に「あなたたち(三男)の子供と違って(従妹)は特別なんだから。将来(従妹)に逆らうことがあったら家が傾くよ。だからあんたたちの子供が(従妹)に逆らうことがないようにちゃんと躾けて頂戴。」と言って言い合いをするように(怒らせるように)孫を差別して母を煽り、問題のある家族に見えるように仕向けてきた。
私しか見ていなかったようだが、ある時祖母が叔母に「世間体が悪いから長男夫婦のあなたたちが家を継いでほしい」と言っていたことがあり、まだ子供だった私は(叔母は家事を押し付けられることが嫌だろうから多分OKはしないだろうな)と思いつつ、叔父夫婦の気まぐれでいつ追い出されるか分からないと少し不安になった。でも、できることは何もないので、「食べられる野草」という植物辞典を読んで子供らしく『何か』に備えていた。(でも料理は苦手)
※近所の人たち全てが私の父を「親を困らせる甘ったれたダメ息子」と思っていたとは思えない。
- 祖父母の話を本気にして私たち家族を憎んでいた人
- 都合がいいから信じたふりをして日頃のうっ憤を晴らす人
- 信じる信じないは別として祖父母を敵に回したくない人
- 本当は祖父母の本性を知っているから関わりたくない人
- 家が近くだから面倒を起こしたくない人
様々な人がいた。
自分の身を守ることは大事なことで、自分を守るために人を傷つけてしまうことがあっても ある程度は仕方のないことだと思う。極力人を傷つけないように生きていきたいが、たとえ人を死に追いやることがあっても、自分の信念を貫くことが大事なんだと学んだ。
母は祖母と言い合った後「人に上下など ないのだから、従妹とは普通に接しなさい」と言われて、母の言っていることが正しいと思ったが、ASD特性の「たとえ間違っていても年長者の言うことに従わなければいけない」という思い込みと、母と祖母の言い合いを見るのが精神的につらいのとで、祖母の方が間違っていると思いつつ、祖母の言いなりになることにした。
従妹は遠回しに「一人っ子だから姉妹のようになりたい(普通に接してほしい)」と言っていたが、普通に喧嘩などしてしまうと母が祖母に「躾が出来ていない」と言うので普通に接することができず、当時幼稚園だった従妹におもちゃを取られても「返して」と言ってはいけない(母が祖母に怒られてしまう)ので泣くことしかできなかった。